Deleuze「冷酷な体制でも、我慢できる体制でも、その内部では解放と隷属がせめぎあう」 | ふくしらぢお dansoundemo

Deleuze「冷酷な体制でも、我慢できる体制でも、その内部では解放と隷属がせめぎあう」

「…スペタクル社会の目的とは、おそらく人の生の外的環境、たとえば都市、街路、消費の場面、余暇を過ごす場面、メディアといったものが過剰に見世物化され、その幻影が人々の神経回路を刺激し、人々の行動様式に決定力を持つということだけにとどまらない。


 それは人々の生にかかわる営みそのものを、可視性へとむかわせる。生そのものが生の『外部』へと開かれていなければならない。


 だから、労働に従事し、さほど脆弱ではないと自認している者にも、恐怖は作動する。労働の時間、ふとした休息の時にも、人は可視性にむけて開かれていなければならない。絶え間なく何者かにむけて晒されていなければならない。絶え間なく生の時間をつねに何者かにむけて立証していなければならない。


 だから、web上には日記というかたちで、どうということもない生の営みや、日常の他愛のない出来事が、さもなにかあったようなもっともらしい形式に仕立て上げられながら、宛先のない業務報告書として提出されなければならない。


 だからSNS(social networking service)では、人はどのような趣味をもつかということを自分の外部に対して『積極的』に開陳しなければならないし、どのような映画をみたか、何の本を読んだかレビューしなければならないし、獲得した顧客の数を立証する名刺ホルダーのように、友人の一覧がつねにディスプレイされていなければならない。たとえそれがどんな空疎なものであろうとも、余暇・趣味からはじまって親密性といった領域に至るまで、つねに不在の上司に報告しなければならない。生の時間すべてを、恐喝された時のあの滑稽な動作、衣服を自らまさぐるようにして、つねに外部へさしださなくてはならない。しかしそこでさしだされるべきものの実体はなにもない。ここでも『ない袖はふれない』のだ。…」


(松本麻里「百億の『断食芸人』」『現代思想』vol.34-14/2006年/青土社)